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【読むヨガ】ヨガの“上級者”

本来のヨガにおいては、難しいポーズができたり、大きくて激しいポーズをこなせたり出来ることを“上級”とは呼ばない。それは「アーサナ」の上級者と呼ぶことはできるだろうが。

カラダが柔らかいから、難しいポーズができることがヨガの上級者だとするならば、体操選手やバレエダンサー、アクロバットやサーカスをする人たちはほとんど全てがヨガの上級者になってしまう。

ではなぜハードな動きや難しいポーズをこなせることがヨガの上級ではないのだろうか。

それは、ヨガがただのエクササイズではなく、人に見せるためのダンス的なものでもなく、ましてや、他と争うためのスポーツ的なものでも何でもないからである。

人間生活の営みの中で、その動きを統制するのが一番やっかいで難しいのはココロである。
ココロを統制しないと生きにくくなってしまう地球上の種族は、おそらくホモサピエンスだけであろう。

カラダというものは、見える部分に関して言えば、いわゆる肉体改造をしていくうちに何とかなったりするものだ。
ただ、内臓の動きなど自律神経で制御されている「見えないもの」については「意識」が絡んでくるため、こちらはさらに目に見えない上級分野のカテゴリーとなってしまうのでひとまず脇へ置いておく。

ではなぜココロがやっかいなのかについての糸口に少し触れてみる。
例えばカラダの痛みや痒みなどの刺激を受けたとき、まず最初に動くのはココロである。
カラダの辛さを回避したいのはココロのほうで、「痛いよう」「痒いよう」と感じているのはココロ側なのである。
元をただせば「ココロが苦しくなりたくない」から、カラダを治したいのだ。

別の角度から見てみよう。

『病は気から』
これが伊達にある言葉ではないことは誰もが実感しているはずだ。
何かしらココロが苦しむ状況にあることによって、人間生活の全てに影響が出てしまう。

逆に、カラダが病んでいるからといって必ずしもココロが病むわけではないことは、様々な障害を乗り越えた人たちの事例が多くあるのをほとんどの方が耳にしたことがあるだろうから、大部分の方がご存知だと思われる。

簡単に言うと、肉体上に起こる様々な症状や生理現象については、“それ”によってココロが揺り動かされない限り、実際は別に苦しいことでも悲しいことでも何でもないのである。

ココロのやっかいさに話を戻す。

このココロというものは、ほぼ無意識に動き回る。
そのためコントロールが非常に難しく、かつ、本人以外のチカラではどうしてあげることもできない。
“自分自身で対処しようと思わない限りどうすることも出来ない”性質のものである。

逆に言うと、自分で何とかしようと制御を試みることによって、何とかなるということでもある。

ではこの制御する能力をどのように鍛えればいいのか。
ここでヨガが登場するのだ。

このやっかいなココロを統制するためのトレーニングが本来のヨガの目的の一つであり、これに熟達しているほど“より小さな動き”で満足に至れるのがその本来のところである。

ココロがうるさく飛び回り暴れれば暴れるほど、カラダのほうもジーーーーっとしていることを好まない。ココロが惹かれるものに向かって、どうしてもカラダが動いてしまうことは人間であれば自覚のもとであろう。まさに居ても立っても居られない状態である。

さて、世の中には色々なエクササイズがあるが、昨今世の中ではいかんせん即効性が好まれる。
どんなエクササイズも即効性が無いとすぐに飽きられてしまうことが多いが、その中におそらくヨガのクラスも含まれるだろう。

だが、人類は未だ肉体を所持しており、この肉体自体は太古の昔からそう大きく様変わりしているわけではない。
ヨガで扱うのは『見えない分野』なので、ほんの少しでも意図コントロールが上手にできないだけで元の木阿弥となるため、よほど完璧な統制が出来ない限り即効性が現れにくいのは当たり前なのである。

本来のヨガというのは、ココロの作用に注目してこそその真価を見い出せる。
カラダだけのためなら、もっと合理的で機能的なエクササイズが沢山あるのだからそちらを選ぶ方が効率は良いはずだが、数多ある習い事の中からヨガを選択したのであれば、それがたとえどんなスタイルのヨガであれ、もしかすると自身が意識できないほど深いところで、その効果を察知しているのかもしれない。

話を最初に戻すが、では、難しいポーズや動きがダメなのかというと、もちろんそういうわけではない。
効果としては、激しく大きく動くことによって“カラダが存在している”という感覚に強制的に気付かされるというメリットがある。

ただ、ヨガの目的は『気付く』ためなのだから、もし気付くことができれば別に『動く必要がない』ということにはなる。カラダを使うヨガの最終形態はつまり、『瞑想』的なものということになるのだ。

何もしていなくても、たとえ呼吸だけしていても、生きている喜びを実感できるのがベストである。
何処にも何にも境界線などなく周囲に溶け込んでいくようなつながりを感じること、そして存在そのものが平和であり至福であるところを目指す。

これが本来のヨガを実践する目的なのだが、ここだけ聞くとほとんどの場合は宗教じみた考えに聞こえてしまい敬遠されることがままある。だが、有史以来生まれた全ての宗教の礎に『本来のヨガ』があるので、これはもう仕方のないことだ。

ただ、このようないわゆる“宗教”というものを恐れるココロもまた自身が生み出したものだ。
人間が作った“宗教”を恐れないためにも、本質を求めて自己を掘り進め、自分の内側から答えを見つけるための探求を続けることが重要である。そしてその探求のことを本来のヨガと呼び、これを実践し続けながら徐々に深奥に近づいている人を『ヨガの上級者』と私は呼びたい。