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【読むヨガ】 シンプルに生きるとは

「シンプルに生きる」
よく耳にする言葉ですが、そもそもシンプルに生きるとは一体どういうことなのでしょう。

もともとヨガの目指すところは『悟り』なのですが、そこに至るまでの道には人により様々な課題がありまして、その中のひとつに“手放すこと”という項目があります。

人間には様々な欲求がありますよね。
“あれが欲しいこれが欲しい”“こうなりたいああなりたい”“どうしてほしいこうしてほしい”“何が食べたいあれが食べたい”(…以下無限に続く)

我々が生きているこの世は、刺激であふれています。
刺激というと難しいですが、簡単に言うところの「感覚」です。
ある感覚に慣れてしまうと、その感覚にだんだん気が付けなくなってしまいます。
最初は気付き自覚していた「感覚=刺激」が感じられなくなってしまうので、もっともっと!と追い求めてしまうのです。

ではなぜ「感覚=刺激」を求めるのかというと、それは「生きている実感」を得られるからです。
分かりやすいところでは、自分に生きる価値や生きる意味を見いだせない人が、つい自傷行為に走ってしまうところにも例が見られます。
そう考えると、刺激を求めるということは生きることに貪欲だとも言えます。
なので、決して刺激を求めるのがいけないワケではありません。

ただ、、、生きているだけですでに感覚=刺激はあるはずなのに、それを「感受する能力が鈍麻していく」という事実は知っておく必要があります。

例えば。
もし今あなたが立ちながらこれを読んでいるとしたら、足の裏の感覚に意識を向けてみてください。
座っているとしたら、お尻の感覚に。
肌に触れている衣類の感触はどうでしょう?背もたれに寄りかかっているとしたら背中の感覚にも意識を向けてみてください。重いカバンをぶら下げているとしたら、腕や肩が圧迫されているはずです。

でもスマホに夢中だったり、会話に夢中だったり、考え事で忙しかったり、とにかく何か他のことに意識を取られていると、いま受けている刺激は完全に無視します。
だからといって、いま受けている刺激を無視せずに意識を向け続けながら他のことをしたり、社会生活を送ることは、一般的には難しそうですよね。

逆に不快な感覚を受けている時(おなかが痛い、歯が痛い、下着が食い込んでる、ケガがじんじんしているとか色々)は意識がそちらに向いているため、何も考えられなかったりします。
人は社会生活を円滑に進めるために、必要なところに必要な意識を全力投球し、今とくに問題がない他のところは無視しながら生きざるを得ないのです。

大人になるにつれて、忙しく生きるにつれて、ほとんど使わなくなってしまった私たちの「刺激を感受する能力」。
生まれて初めて歩く行為を獲得したときは、ただ立って歩くことにさえ大変な意識を向けていたのに、歩くことが当たり前になってしまうと「無意識」で歩けるようになります。
でもそういう行為たちが一つずつ「無意識」で行えるようになることによって人間は次の行為ができるようになるので、これはこれである意味仕方のないことなのです。

このようにたくさんの「無意識」たちは、積もり積もって、まったく見えないぐらい深いところに押し込められていきます。
そして無意識があまりに過ぎると発酵して爆発モードに突入し、サインを送ってきます。
心身に何かしらの症状が出たり、思考のクセからいつも同じ障害にぶちあたる問題などを起こして、現象が浮上してくるのです。

でも逆に考えると、これまでに「無意識化」したたくさんの「感覚=刺激」を、すでに私たちは持っているということにもなります。ですので、自分に埋まっている内側の「無意識」に手を伸ばして、触ってあげればいいのです。

ここまで読めばもうお気づきですよね。
「もっともっと!」と外側に伸ばしていた手を、今この瞬間に受けている内側の感覚に向けてみる。すでに今している行為に少しだけでも意識を向けてみる。

こうしてみることで、見過ごしていた小さな感覚を見つけ、「あ、私それもう持ってるかも」と気づき、おのずと手放していけるのです。
それがいわゆる「シンプルに生きる」ことにつながるわけです。